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2024年10月20日 主日礼拝『結局は「神様の御心」だった』

本文
<マルコによる福音書14章36節>
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私の望みではなく、御心のままに。」(聖書協会共同訳)


イエス様の時、時代が邪悪だから十字架を神様の御心と定め、メシヤが万民の罪を代わりに負い、十字架で贖(あがな)うようにさせました。
これによって時代の罪を赦し、みんなが死から出てくるようになさいました。

義人はよくやっても悪人によって苦痛を受けます。
イエス様も福音の仕事をよくなさったにもかかわらず、死ぬ時まで内的、外的苦痛を受けながら神様の御心を広げられました。

神様の御心があって悪人が義人に苦痛を与えたのではなく、彼らが邪悪だったからです。
聖書を正しく解けず、神様の御心だとばかり言います。
善と悪を完全に分かってこそ、時代と個人も何が義であり、何が罪なのか分かります。

全知全能なる神様はこの世と霊の世界を治め、絶対的に行なったとおりに善か悪か報いる方であることを分かって行なわなければなりません。
人を恐れず、肉も霊も滅ぼす神様を恐れて仕えなければなりません。

いつの時代でも義人は時代を分かって我慢し、堅固に耐えて祈って、死の地獄に行かなくなり、神様の国まで得ました。その力で生きるのです。
その希望ですべてに打ち勝って生きなければなりません。

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