主の栄光教会ってどんな教会なんだろう?その答えは、教会に通う一人ひとりにあると考えます。教会を作っているのは、教会に通う一人ひとり。だからメンバーを知れば、その姿が浮かび上がってくるはずだと、連載コラムがスタートしました。教会の掲げるミッションとしてのSMART(Social・Motivative・ART)。そんなスマートな人たちの魅力に迫ります。
かの平賀源内が著書『放屁論』でも論じている屁=おなら。その生理現象を通して、人間について考え、神様を知るに至ったメンバーを今回はご紹介します。神様に出会うきっかけは個性通りに人それぞれ、そしてその人に合った絶妙な時があるのだと改めて思い知らされました。
File.029 みほさん(教員・30代)
生理現象の一つである「おなら」を通して、
人間を解明したかったんです笑)
―聖書を学ぶようになったのは、研究員の友人を通してだったとか。
そうですね。名古屋大学の大学院で、おならの研究をしていた時に知り合った研究員の方を通して聖書を知るようになりました。彼女の研究分野は、自分のとは全く違うものでしたが…。同じ研究者仲間ということで。
―おならの研究! これはまた面白い研究をされていたんですね。
よく言われます笑)大学では日本文学を専攻していたのですが、その際に鎌倉や室町時代の絵巻におならを題材にしているものを発見して、これは!と思って。さらに遡って幼い頃、母に『へっこきあねさがよめにきて』(文:大川 悦生、絵:太田 大八、ポプラ社刊)という絵本を読み聞かせてもらったあたりから、おならって面白いな…という思いがあったようです笑)。なぜ面白いかを考えてみたのですが、出たらなくなってゆくものが何の役に立つのかって感じですし、その割には精神的に与える影響が大きい生理現象ですよね。しかも環境や状況によっては笑いにもなり、羞恥心にもつながり、マナー違反にも認定されてしまうわけです。これは、人間というものを解明できるのではないかという深い思いもあり、興味深く感じました。
―それは、深い。確かに、動物だったらおならで恥ずかしく思うことなんてないですし、おならでマナーに反すると戒められることもないですもんね!なるほど、人間について考えるきっかけがおならにあったというわけですね。
はい。おならがきっかけではありましたが、「人」に興味があったこと、恋愛や兄弟愛、親子愛など「愛」というのはとても深いなとよく考えていて。そういう意味で、聖書を学ぶとドンピシャで「人」、「愛」がテーマなので、話が抵抗なくスッと入ってきました。

―おお。愛についても考えていたと。
恋とか愛とか考えることが幼い頃から多かったかと思います。また、高校時代に現代文の授業で『ラムネ氏のこと』(坂口安吾著)が取り上げられた際に、キリスト教の福音が日本に入った時、聖書の「愛」という言葉をそのまま「愛」と訳さずに「御大切」と訳していたという内容を聞いたのを記憶しており、日本人の考える「愛」について考えさせられていました。なので、おならの研究の傍らで、愛の文化史という研究も面白そうと思っていたぐらいです。ちなみに聖書では愛についてたくさん触れられるのでよく反応していました笑)。
―もともと関心を持っていたテーマを聖書で学ぶようになったわけですね。研究者なので、聖書を学びながらたくさん検証もされたかと思いますが、共感し、信仰が入るまでに至ったのはどういった経緯があったのでしょうか。
聖書を学びながらたくさん質問もしました。教えてくださった方々や、上述の研究員の友人に長文の質問メールを送りましたが、いつも的確に回答いただいて納得してきました。そのように検証して納得した上でというのもありますが、一番は、聖書を学ぶと力を受ける自分がいたことが大きかったかと思います。これは理屈というよりは感覚ですが、自分の実感なので嘘はつけない。そして誰しもあるかと思いますが、例にももれず自分もそうでしたが、家庭で親の考えの影響を受けて育ってきていることが多いと思います。聖書を通して真理を知ると、そういう家庭の考えにも縛られなくもなりました。例えば「あ、これは母親の考えだったのか」と客観的に俯瞰して考えられるように。ある意味、本当の意味で自立して大人になったのかもしれません。

―力を受ける実感と真理によって自由を得た感じですね。
聖書を学ぶと心が落ち着き、安心感もありました。そうして生活の中で変わっている自分がいましたし、どう考えても今まではなかったポジティブさも生じていて。また、お祈りを教えてもらって祈るようになってからは、祈りに応じて神様が働きかけてくださっていることも感じるようになりました。聖書を学びながら神様の愛をとても感じてよく泣くことも。ここまできたら、もう信仰は自然に入っていたかと思います笑)。
―なるほど、自分では変わりたくても変わることが難しいことも多い点を、聖書を通して、神様の愛によって変化されてきたんですね。
はい。確実に神様の視点で広く深く考えるようになれたと思います。いろんな必要のない考えが削がれていって、人や人間関係についても見方が変わりました。
―変化した上で、現在は高校教師として活躍されていますね。(※取材時は産休・育休中)
今年の4月から復帰の予定です。聖書を学び始めた時は、おならの研究に行き詰まっていた時で、おならの研究自体にも研究室にも限界を感じてしました。そこから紆余曲折を経て、博士課程後期2年で区切りをつけ教師の道へ。博士課程の期間に教師をやりながら、若い子たちに神様の愛を伝えたい、聖書を直接的にはでなくても神様のエッセンスを伝えられたらと強く思うようになりました。

―教育現場において、神様の視点で見た時に感じられることなどありますか?
最近の高校生はやはり、心が病んでしまっている人が多いような気がします。自分というものが確立していない中で、情報があふれている現実に病んでしまうようです。しかし、私自身は心の余裕がある分、生徒の悩みを聞き出せるようになって、カウンセラーみたいなんて言われるのはうれしいですね。しかも、転勤や産休に入る前に生徒から「今まで会った人の中で一番尊敬している」とお手紙をもらった時は本当にうれしい気持ちがあったとともに、驚きも感じました。尊敬なんて…、と。でもこれは、神様の御言葉で自分を作ってもらったから言ってもらえた言葉だなと思います。そして「先生はなんでいつもニコニコ笑っているの?」「神様を信じてるから♪」とかさりげなく話したりしています笑)。生徒から見ると「先生らしくない先生」のようで笑)、(生徒たちと)目線を合わせつつも大きく包み込めるようになったかなと思います。
―学校という限られた世界での癒しとなられていますね! 最後になりますが、今後のご展望などお聞かせください。
癒しとなれるように、自分が受けてきた神様の愛を言葉で直接的にというよりは接する中で、行動をもって伝えていきたいと思っています。
―貴重なお話をありがとうございました!
みほさんといえば歌もお上手なんですが、歌好きはご家庭の影響も大きく、家では常に日本のフォークソングや60~70年代のアメリカンポップスが流れる音楽大好き一家だったとか。讃美歌に触れてからは、賛美を通して常に力を受けており「讃美歌は歌う技術というよりも歌詞が生き方になって真実な告白になってこそ歌えると思う」と語っていたのが印象的でした。また、「神様の願われる生き方(讃美歌の内容)にはまだまだ自分は程遠いが、そんな理想の生き方に到達したい!と思って賛美すること自体が切実な祈りにもなるのだな」としみじみ思われるとのこと。理想の生き方を目指しながら、日常生活を通して神様の愛を伝えてゆかれる自然体の姿が思い浮かびます。
今後も、マニアックな観点と涙もろい純粋な温かさで周りを天の愛で包んでいってください!期待しています!!

