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インタビュー連載コラム_vol.5「SMART」な人

主の栄光教会ってどんな教会なんだろう? その答えは、教会に通う一人ひとりにあると考えます。教会を作っているのは、教会に通う一人ひとり。だからメンバーを知れば、その姿が浮かび上がってくるはずだと、連載コラムがスタートしました。教会の掲げるミッションとしてのSmart(Social・Motivative・ART)。そんなスマートな人たちの魅力に迫ります。

File.005 片桐真也さん(会社員・40代)

自分がどこまでの人間なのか見てみたい、
というマインドが昔からありましたね。


―教会へ通うようになったきっかけは、教会の人がやっているイベントで、信仰を持つ人に初めて出会って新鮮さを感じたこととお聞きしました。

はい。教会の人のやっているイベントに参加するようになったのは、大学3年の秋に大学野球部をケガでやめて、何もすることがなく暇だな…と思っていた時にイベントに誘われたのがきっかけですね。教会のイベントとはいえ、やっていることはスポーツとかだったかな。でも、大学のイベントにもいろいろありますし、そもそもイメージがあんまりよくなかったんですよね。が、その時に中学の頃、大変お世話になった恩師の一言「人との付き合いにはお金と時間を惜しむな」が頭をよぎりまして…。

―とりあえず、偏見を持たずに行ってみようと行かれたわけですね。1人で行かれたんですか?

友人も誘おうかと思いましたが、その時は1人で行きましたね。イベントには自分のように教会の人ではない人もいましたが、その中に両親がクリスチャンで自身もクリスチャンの方に会いました。今まで会ったことのない、自分とは全く思考の違う人だったんですが、とても新鮮だったのを覚えています。

―その人以外の教会の人にはどういう印象がありましたか?

目がね、輝いていた笑)。最初のイベントから、そのあと何回か一緒にスポーツしたりして過ごしたんですが、教会のメンバーたちの目の輝きが違うな、と感じるようになりました。実際、その当時は聖書が正しいかどうか、神様がいるのかどうか、御言葉がいいのかどうかはわからないが、人の輝きは本物でした。「ああ、自分も聖書の話(御言葉)を聞いていったらこうなるのだったらありかな?充実した生活に送れるだろう」と思い、教会に通うようになりましたね。

―そうして教会に通うようになられましたが、もともと教会や信仰とは全く関係のない方だったと思います。出身の姫路ではやんちゃな笑)青年期を過ごされた後、大阪の有名国立大学工学部の博士課程に進まれ卒業されました。自分の進む道のプランみたいなものを幼少期からお持ちでしたか?

やんちゃと言えば…、中学生の頃に警察のお世話になりかけたことがあります笑)。が、先の恩師の助言もあり、高校は真面目に過ごさなあかんと真面目になりました。が、今思うと、親の教育は幼いころから厳しい方でしたね。母親から漢字の書き直しを何度もさせられたのを覚えています。中学の頃は、よくつるんでいた仲間に隠れて勉強はしていましたし。いつかはまじめに働かないといけないから「学」がないと、とは思っていたんです。野球をやっていたのは、父親が野球の監督だったからなのですが、スポーツは生まれ持った才能に左右されると思っていたのもあり、才能のない自分はやっても仕方がない、だから、やらされてやっていた感が強かったです。なので、スポーツは才能や環境、運に左右されるけれども、学問は、努力を裏切らないだろうと。先の素行もあり笑)、内申点が足りず地元で1番の進学校ではなくて、2番手の進学校にはなりましたが、周りからしてみると冗談でしょう、という進学先でしたね。高校に進学してしばらくして、仲の良かった中学時代の後輩に会って通っている高校名を話すと「いやあ、片桐さん。ボケるんやったら〇高(1番の進学校)ていわなあかんでしょ笑」と言われるぐらい笑)。

―そうして進学校から有名国立大学の工学部へ。そんな片桐さんが、教会に通うようになったとはいえ、どうやって神様という存在を受け入れて、今に至るのか気になりますね。

神様がいてもいなくても自分のやることには変わりはないというスタンスを持っていて、信じれば救われる、とか願掛けなど他力本願的なものは嫌いなんです。だから、聖書の話で自分の責任分担の話が出てきた時に納得できました。聖書の話を聞き始めた当初は、神様という存在を否定も肯定もしないし、自分のやるべきことをやって報いられるならそれでよし、という感じでしたが、徐々にこれって神様なのかな…?と感じられる経験を繰り返す中で確信が持てるようになったのはありますね。あと、自分はいわゆる高学歴社会の例にもれず斜めに物事を見ることがかっこいいと考えていたところがあります。しかし、教会のメンバーの何でも熱く全力でやっている姿に理屈抜きで惹かれましたし、一緒にいて刺激を受け、純粋に楽しかった。自分ではこれまでやったことのないダンスや歌なども教会に来てやるようになりましたが、新しいことにチャレンジしながら楽しくここまで来た感じですね。実際、教会に通う前の大学時代を振り返ってみても、友人といつも「なんかおもろいことないかな?」と口癖のようにいっていましたし、根本的には熱くなれるものもなく満足できていなかったのだと思います。自覚していないだけで。

―新しいことにチャレンジしてきたとありましたが、スポーツもその一つとお聞きしました。現在の姿からは意外なのですが、もともと足も遅い方だったとか。教会に来てからのスポーツとそれ以前のスポーツとの違いはありますか?

教会に通う前のスポーツは、先にも話しましたが、やらされていたから楽しくはなく、自分に対して期待もせずに惰性で続けていた感じです。上手い人が上手いだけと思い、いわゆる体力づくりぐらいの意識しかなかった。教会に来て、サッカーやバレーなどやるようになりましたが、明らかに違ったのは、それぞれの特徴や個性を活かしてプレーすることでした。バレーでアタックやブロックの際に高く飛べたこと、その一つが自分の可能性につながるのを実感できる。自分でもできることがあり、何もないところからできるようになった楽しさがありますね。だから、身体能力が高いことは素晴らしいですし、その能力でスポーツするのもいいですが、お互いの能力を活かして伸ばしていけるスポーツが教会に来てからできるようになりました。

―人との出会いも含めて楽しく教会生活を送られてきましたが、20年以上教会に通われる中で、モットーとなっている座右の銘などありますか?

「人間到る処青山有り(じんかんいたるところせいざんあり)」という言葉がありますが、骨を埋める場所はどこにでもあって、大望を実現するためには、故郷にこだわらずに広い世間に出て活動すべきだ、という意味です。地方出身なので、地元にはそこでずっと暮らしていく地元の仲間も多いですが、自分はこのまま地元で骨をうずめたくないなと思っていた時に知った言葉です。幼いころから自分はどこまでいけるのか見てみたいというマインドがありました。そうしたら今では、神様を知って目に見える世界だけではない広くて深い世界に身を置くようになりました。もちろん、目に見える世の中のことを知り尽くすことも視野が広いことかもしれませんが、神様の世界はある意味、根本的でありながら宇宙も超えた広すぎるぐらいの場所。自分の死に場所は、すべてを包括するここかなと思いますね。

―死に場所…。アニキーーー!っと叫びたくなりますが笑)、片桐さんらしいです。大学院を卒業されて、某大手メーカーに勤務され、今では2児のお父様でもありますね。社会生活と信仰、そして家庭生活とバランスを保ちながら自分らしく生きる秘訣は何でしょう?

「ちょっとムリをする」ことですかね。極端に何事もやりすぎないことです。続けられるようにちょっと負荷をかけながらやることを自分は大事にしています。そして教会でやっている様々なことも、自分の生活とは別物ではなく、自然と自分そのものになっていけたらいいですよね。自分も信仰がオプションではないと、家庭をもったことで思えるようになりましたが。

―まだまだ面白いお話したくさんありましたが、今日はこのあたりで。ありがとうございました。今後のますますのご活躍を期待しています!

2001年から現在に至るまで毎日書き続けている日記。歴史を残したいという思いから。
「3カ月ぐらい書いて読み返したときに面白いことに気づきました。日記、おススメですよ!」
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